再興者・箱崎文応行者

 箱崎文応大僧正は、明治25年4月7日、福島県石城郡小名浜町(現いわき市)に生まれました。昭和5年に起きた海難事故で多数の同輩の死に遭い、強く人生の無常を感じ、 遭難者の菩提を願うとともに自己の得脱の道を求めて一人比叡山に入ります。時に昭和5年4月、39歳の春のことでした。

その翌年、比叡山大乗院住職、小森文諦師に必死の懇願をして弟子となり出家得度し僧籍に入って名を文応と改めました。 その後も日夜修行に精進し、山坊の雑務に従事しつつ厳しい比叡山の修行に挑む日々が続き、昭和7年には四度加行を満行。 同8年には入壇灌頂履修、同9年比叡山最高の難行、回峰修行に入り、13年10月25日より11月2日まで、断食、断水、不眠、不臥の堂入修行を満じ、 15年10月、一千日を満行して北嶺大行満大阿闍梨となられました。

それ以降も、17年、吉野大峰山回峰一百日、18年、比叡山飯室回峰一百日、19年、木曽御嶽回峰一百日を修行。23年に比良山回峰に入り、比良山頂の回峰修行場を開かれました。

 昭和25年には、比叡山延暦寺一山長寿院住職を拝命。以来長寿院において修行と信徒の教化、国家の安泰を祈念し、昭和46年大僧正に補せられ、天台宗布教師一等待遇となられました。 平成2年2月6日長寿院にて遷化。世寿98歳、法寿58歳。

 文応大僧正は、外見は厳格で豪胆な性格の持ち主でしたが、内に慈悲を蓄え、多くの信者に敬愛されてこられました。 師とお話しする機会を得た者は、師の人格徳望に傾倒し、生涯にわたって師事すると誓ったものです。 出家以来、断食修行36回、90歳まで毎朝の滝行を欠かさず、ひたすら国家安泰と大衆救済を祈り続けられました。

 また、水の徳を尊び、殊に琵琶湖を愛し、比良八講の古儀を復興して、水難と湖上安全を祈念されました。毎年3月26日、琵琶湖上での水難者供養、採燈大護摩供を奉修して50年余。 文応大僧正が復興された「比良八講」は、今や関西の春を告げる一大行事となりました。文応大僧正の徳望と業績は計りがたく、まさに「希有の大行者」と呼ばれるにふさわしい方です。 

記事より偲ぶ大行満箱崎文応師
南山千手氏は、箱崎文応師について「比叡山時報」にいくつか記事を掲載されておられます。その記事をお借りしてご紹介ます。

 いまから50年以上も前に、琵琶湖が汚れると深刻に考えていた人はほとんどいなかった。私なども比叡山から眺める湖面は四季を通じて美しく、 岸辺に立つと澄み切った水の中にはたくさんの小魚がたわむれていたし、喉が渇くと手にすくって水を飲むことができた頃、この水が汚染されるなど思いもよらなかったのである。

 そのころ、真剣に琵琶湖の将来に心を砕いていた人がいた。北嶺大行満箱崎文應師である。

 箱崎さんは、千日回峰行を満行してから引き続いて比良山回峰を始めた。比良山1,100mの山頂からは琵琶湖のすべてが手に取るように広がって見える。 箱崎さんは、比良山頂に横穴を掘り、断食生活をしながら祈り続け、琵琶湖を眺めつつ社会の平安を祈った大行者だが、その得難い経験からにじみ出た言葉が、一滴のみずであった。 琵琶湖の水は、近畿の水がめである。水がめが汚れてしまったら、すべての生命が汚染される。琵琶湖ほどの大湖が汚れるとしたら、全国の水はすべて汚濁にまみれてしまう。 水を汚すのは、人間の仕業である。

人間の心に水を大切にする心を育てねばならぬ。芯から箱崎大行者は思ったのである。

 もう一つ、かつて水難事故で生命を落とす人は事故死のトップにあった。だから、水難から人の生命を救おう。また、水難事故に遭い、不慮の死におもむいた人を慰めよう。 これが箱崎さんの心からの願いであった。

 比良八講を箱崎さんが再興されてからもう40年、当初は比良山頂に登って法要を行い、その後、琵琶湖上を渡って、びわこタワーで護摩を焚き始めてからもう30年を迎えた。 箱崎大行者が、99歳で大往生を遂げられてからはや8年が過ぎたが、その意志を継いだ信者の人々は箱崎さんが灯した明かりをさらに大きく燃え立たせている。

 3月26日の比良八講の日には、2艘の観光船に300人あまりの人が乗り込み、慰霊と琵琶湖浄化のきがんをおこなった。 この大行事の下働きをするのが、箱崎さんに最後まで師事した竹下喜芳、数野登、北村美津子、東岸滋応、そして、びわこタワー社長の故竹岡為雄さんと現社長の前田茂氏。 また、本藤さん、池田さんなど多くの人々の献身的な努力である。

 事故死の慰霊のための塔婆の勧募、経費の寄付依頼などなど、比叡山横川の寺院関係者と協力して、この浄業が続けられているのである。

 午前9時半から、大行列が大津の大谷派寺院から出発して市内を練り歩き、 10時30分、天台座主を先頭に僧侶15人と箱崎さんが育てた比良修験者など30人が分乗して祈願とご回向をしつつ船は堅田に進む。 その時、例年の通り、北村美津子さんが比良八講の歴史をマイクを通して放送する。 箱崎さんの思い出、山田、梅山両座主、生田孝憲師など故人となった功労者を讃え、協力者に丁寧に行き届いた挨拶をされる。

 私はマイクから流れる北村さんの声に、つい涙してしまうのだ。多くの人の行動の中に箱崎老の願いが今も生きていることが、 この声の中から聞こえるのである。
比叡山時報 平成10年4月8日 「目覚めて生きる」より。


 南山千手氏のコラムをもう一つご紹介します。同じく比叡山時報の「一隅運動の展望」に寄せられた記事です。記事のタイトルは「“生き不動”一行三昧院」です。 

大行満箱崎文應師が大往生を遂げた。98歳まであと2ヵ月の2月26日。

その日、信者の歯科医に入れ歯の治療をしてもらい「ありがとうございました」と礼を述べたのが午後7時。 2時間後、付き添いの信者さんが近寄ってのぞき込むと、よく寝ておられる。頭を触ってみると少し冷たい。すでに息が絶えていたのだ。 文應大僧正は、この日を前もって酒井阿闍梨に告げていた。

「行者の死にざまをよく見ておけ」

 大僧正は、死ぬ1週間ほど前から仏前に供えた水を腹一杯飲んだ。呑んでは吐き出すのである。吐く水は、少し赤味を帯びていた。

 内蔵まできれいに洗って仏の国へ旅立とうとしたのであろう。生死一番、毎日が仏との対面であったように思えるのである。

 大僧正は、もともと福島県小名浜町の漁師であった。ある夜、水難事故で生命を失った仲間のうめきを聞いて、出家を思い立ったのである。 無頼に似た己が姿にもおののいた。

 青森から比叡山まで、憑かれたように歩いた。39歳であった。

 比叡山無動寺谷には、回峰行三千日を修行中の奥野玄順師がいた。

 必死で入門を頼むと、屈強な男だから籠かきによいと入寺を許された。 玄順大阿闍梨は、三千日目に足を痛め、山籠に乗って足を引き摺りながら30キロの山坂道を修行していたのだ。

 行者を乗せた籠をかついで山坂道を歩くのは、漁や行商のつらさなど比べものにならなかった。

 得度を受け、念願の回峰行も条件付きで許された。

 行中も客用のふとんを天秤でかついで無動寺坂を登った。来客の食事づくりなど毎日が小僧兼行者だ。

 今道心には厳しく、という玄順大阿闍梨は、文應行者を怨敵のごとく仕打った。

 この男を一人前にするには、この手しかないと考えられたのであろうか。

 九百日目の毎日84キロの大廻り修行には、腰押しの供をつけねばならぬが、これも許されなかった。昼夜を忘れて独り歩いた。 毎日2時間足らずの睡眠で百日間、時には電柱にぶち当たり、谷へも落ちた。

 千日の行が終わっても修行は止めなかった。大峰山、御嶽山と常人の想像を遙かに超えた難行に挑んだ。

 文應阿闍梨の真価がわからぬ信者は水の如く去った。しかし、心が分かると死ぬ覚悟でついて来た。飾りもなければ、野心もない、魂がぶつかり合う人間関係の者だけが残る。

 最後の行場は比良山であった。琵琶湖での水難者のことが頭から離れなかった。出家の動機となった水難事故は生涯忘れることがなかったのである。 水を尊ばねばならぬ。水の恩恵を忘れると、水の仕返しを受ける。水はいのちだ。

 文應阿闍梨は、千メートルあまりの比良の山頂に回峰道をつくり、百体の地蔵尊を祀った。背に石像をかついで信者とともに砂礫の急坂を這った。

 山中、土穴の中で断食行中の文應阿闍梨を見た人は、その異様な姿に驚天したという。

 常在の比叡山飯室谷では、90歳まで毎朝3時の滝業を欠かさなかった。心の奥底、五臓六腑まで清めたいという覚悟である。

 九日間の断食断水36回。信者は文應阿闍梨を親の如くに慕い、神の如く畏れた。

 九十を過ぎてからは、信者が寄進した回向三昧堂に籠もって、夜となく昼となく念仏三昧に入った。

 出家したときの水難者の位牌を祭壇に祀り、三界万霊に思いを寄せての回向三昧である。

 自己の救いなど無関係であった。死ねばそれまで、仏界も地獄もこだわらぬ。ただみ仏のなすがままの心境と見た。

 温顔は目の輝きに勝るものはない。しかし、死ぬまでこの人に嘘は通らなかった。目が許さなかったのだ。

 天台座主猊下は、この人に「一行三昧院」を贈られた。忌明けの3月26日が文應阿闍梨が琵琶湖浄化と水難者供養のために始修した「比良八講」の日というのも不思議である。 生きて働いているのであろうか。大きな一隅を照らす人であった。

「比叡山時報」より

文責・東岸滋応