比良八講の歴史的背景

最澄が開いた天台宗
天台宗の開祖である最澄(伝教大師)は、767年、現在の大津市下阪本で誕生されたと伝えられています。 12歳の時、近江国分寺(石山寺)の高僧、行表(ぎょうひょう)の門に入り、得度して名を最澄と改めました。 最澄は19歳の時、奈良の東大寺で具足戒を受けましたが、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、 その同じ年、一人ふるさと近江の比叡山に庵を編んで山林修行を行い天台の思想を構築していきます。

比叡山と法華八講
794年、平安京に遷都した桓武天皇は、志の高い聡明な青年僧・最澄を全面的に庇護し、 日本仏教の母山と称される比叡山に天台宗の比叡山寺(延暦寺)が開かれました。
この天台宗のよりどころとなる教典は「法華経」です。法華経は八巻二十八品からなり、天台宗では法華教八巻を講説する法要を「法華八講」といいます。

古代の神々と仏教の習合・比良八講の起源
平安時代の天台宗の隆盛に伴い、比良山においても「比良三千坊」といわれるほど多くの僧坊が建てられました。 この比良の地には、古代より多くの神々が祀られていましたが仏教の隆盛とともに古代の神々が仏教と習合し、 「比良明神」「比良権現」「次郎坊」等と名前を変え、仏の化身として人々に信仰されるようになりました。 ここにいたって、比良の寺々では冬から春に季節の変わる時期に「比良明神」「比良権現」に対し、 五穀豊穣、風雨順時などを祈り法華八講法会が行われたといわれます。これが「比良八講法会」の起源となります。

比叡山焼き打ちのインパクト
しかしながら、時代が下るにつれ、天台宗の勢力も衰え、山中の寺々もその数を減らしていきました。 ついには、織田信長の比叡山焼き討ちに遭い、時を同じく比良においても天台の寺は灰燼に帰したといわれています。 村々の寺も鎌倉期に興った庶民救済の仏教宗派(浄土宗、真宗、禅宗等)へ転宗していったといわれています。 こうした時代の変遷の中で、比良八講法会がいつの間にか途絶えていきました。

比良八講の再興に続く

文責・東岸滋応