比良八講の再興

比良八荒(八講)、荒れじまい
「歴史的背景」で述べたような経緯があり、「比良八講」という言葉のみが残りましたが、いつしか春の荒々しい比良颪(ひらおろし)と呼ばれる季節風と重ね合わせて「比良八荒」とも呼ばれるようになりました。 「比良八講」が営まれる3月下旬には、激しく吹きすさぶ季節風もこの頃を最後に収まり、いよいよ春本番の到来で田畑の準備に追われる日々が始まることから 関西では、「比良八荒、荒れじまい」といわれるようになり「奈良のお水取り」と並んで春を表す季語として親しまれるようになりました。

再興者・箱崎文応大僧正
こうした情況の中、箱崎文応大僧正が「比良八講」再興に尽くされました。戦時中に千日回峰行を満行された箱崎行者は、福島県の小名浜(現いわき市)に生まれ、幾多の変遷の後、 水難事故に遭い、多くの仲間を失いました。行者は、このことを契機として40歳になって仏門に入った希有の経歴を持つ出家者でした。 吉野大峰山、御嶽山など日本各地の行場をも回峰され、最後に厳しく自分を指導してくれた亡き師の夢告により、比良山を終の行場にする決意をされ、蓬莱山の山頂に籠もり修行を続けました。 「再興者・箱崎文応行者」に詳細

比良八講の再興
箱崎行者が比良山での修行に入った頃は、時あたかも終戦の混乱期。「国破れて、山河あり」であらゆるものが破壊され、物資が不足した人々は飢餓との戦いの日々でした。 しかし、眼下に広がる琵琶湖は満々と水をたたえ、比良の山は全山琵琶湖の一大水源となって人々を育んでくれる。行者は「これぞ仏様のお慈悲以外の何者でもない」と感得し、 古人が山や湖に抱いていた敬虔な気持を人々に思い起こしてもらい未来の人々にこの自然を残していってもらいたい、と強く思われるようになりました。 そして、比良山の回峰修行を重ねるうちに地元の古老から「比良八荒」の昔話を聞き、この「比良八講」再興を決意されました。

水難者の回向と湖上安全祈願
昭和30年、まだ雪の残る打見山に登り、「寺屋敷」と呼ばれる山頂付近の古寺跡の湧き水を取水し、そこで法華論議法要を行い、 そして、3月26日、衆僧、山伏、稚児娘、信者が乗り込んだ船が、浜大津港より一路ほうらい浜を目指します。湖上では、打見山で取水した「法水」を湖上に流して湖水の清浄を祈り、 同時に箱崎行者の出家のきっかけともなった水難者の回向と湖上の安全が祈願されました。

そして、近江舞子・雄松崎へ
船がほうらい浜に着くと、一行は地元の人々が待つ八所神社に参拝。浜辺にて山伏が採燈護摩を奉修し、ここに中世以降400年以上も途絶えていた「比良八講」が再興しました。 八所神社ではその後2年、そのあと浜大津、雄琴、唐崎、堅田(琵琶湖タワー)と場所を変え、2002年より、ようやく本来の発祥の地、比良の裾野の近江舞子で行われるようになりました。

文責・東岸滋応